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茨城の歴史

排禍ばやし・祭りの季節がやってきた!!

1_1 各地のブログで夏の暑さが強調されている。

例にもれず茨城にも夏がやってきた。茨城の夏といえばなんと言っても祇園祭りである。場合によっては八坂神社の有無なんか関係ない。歴史のある集落なら大抵はやっている村祭りだ。

茨城の夏祭りのすごさはなんといっても・・・

普段はどこにいるのか分からない大勢の人!!

異様にはしゃぐ若者(どちらかというと女性)!!

そして・・・

奇声を発する子供たち!!

しかし、山車のうしろで若いもんが「○○(←地区名)、世界で一番よいところー!!ホッホーっ!!」なんて奇声上げる祭りなんざ、茨城きて初めて見たんだが・・・皆さんのところはどうですか?録音したいぐらいですよ(笑)

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ばらっぱ餅

Photo_54 今日、現場で話題になった植物。

これはまだ子供だけど、実際は葉っぱが手のひらサイズまで成長するとか。

その名もサルトリイバラ、茨城語でバラッパ。

いまでも、お盆になるとこのバラッパをお餅に包み、焼いて食べるそうだ。焼けると葉っぱはパリパリになって落ちるため、結局、餅だけを食すことになるらしい。これを、バラッパ餅と言うとか。

にしても、このバラッパ餅について、教えてくれた人曰く・・・

「特に風味があるわけでなし、味がつくわけでなし、いい香りがするわけでなし・・・なんでこんなことするのか分からない・・・」

とのこと。意味ねーな、うん。

しかも、このサルトリイバラ・・・

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江戸城~桜田門へ

Dsc00812 先日は叔父の古希の記念パーチーで帝国ホテルへ。生涯になんどもいかないであろう豪華ホテルの料理を堪能してきました。トイレも豪華だったから甥っ子と一緒にカーテンで手拭いてやった(笑)

それはさておき、そんな帝国ホテルの窓からみた江戸城。奥のほうで緑のドームが天井についているビルがわが母校・明治大学。茨狼はこの新校舎の初代の卒業生だったりする。校舎建設前の発掘調査もやっていて、そのときの様子が大学博物館で展示されているがもちろん茨狼も写真に写っている。展示されちゃいました!!

Photo_47 しかし、この江戸城はいろいろと茨城とは関係が深い。

城を最初に作った太田道灌の末裔・太田三楽斎資正は国府台の戦いで敗れた後、佐竹氏の客将として迎えられ、旧八郷町の片野城に入り、小田氏と戦っている。

また、江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜は水戸藩出身で一度、一橋家に養子にでたのち、将軍職につき、大政奉還を行った。

そして、何よりも・・・

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小四郎せんせーい!!

Dsc00652_1  藤田小四郎。藤田幽谷の孫であり、藤田東湖の4男。水戸藩の重鎮・藤田東湖でえ、小四郎の行動力に期待していたという・・・。

元治元年、いわゆる天狗党と呼ばれる人々が常陸国府中(現茨城県石岡市)に滞在の後、筑波山に上がり、攘夷を決行すべく旗揚げした。いわゆる天狗党の乱。最後は鰊(にしん)蔵に押し込められ、寒さと悪臭のなか悲劇の死を遂げたの有名な話であるが、天狗党というと薩摩・長州はいうに及ばず、天誅組や土佐勤王党なんかと比べてもマイナーであるのは藩内の内輪もめに終始してしまったためか。しかしながら、水戸藩自体はどの藩にも先駆けて「尊王攘夷」という思想にいきついた雄藩である。

実はこの天狗党の乱。最近読んだ本によると大きく3期に分けられるらしい。

1期は田丸稲之衛門、藤田小四郎、竹内百太郎等が筑波山にて挙兵した時期。2期は水戸藩内の騒乱を鎮めるべく、幕府より宍戸藩主・松平頼徳が江戸から使わされてくる時期(大発勢)。江戸にいた武田耕雲斎はこのとき初めて藤田小四郎たちに加わる。3期は追い詰められた武田耕雲斎らが一橋慶喜に助けを求めるべく西行する時期。

一般的に天狗党の乱というと武田耕雲斎が率いた叛乱というイメージがあるが実は最後の最後だけで、むしろそうなることは彼の本意ではなかったらしい・・・

幕末という激動の時代に、日本の行く末を思い、不本意ながらも散っていった茨城の志士たち・・・そんな志士たちを少しでも応援できたらなあと思ったりなんかする。

ちなみに写真は筑波山神社にある藤田小四郎の銅像。

というわけで立ち上げてみた「天狗党」カテゴリー。どこまで続くか?「幕末の茨城」とかも作ってみようかね?

しかし、分かりずらいんだよなー・・・天狗党・・・ごちゃごちゃで・・・正直、短文でまとめる自信がない・・・

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鹿島鉄道2

午前中は玉里村に行き、よくコメントをいただくコダマさんと面会。借金を返済。その後、お昼をおごっていただき、マンホールを写真に収め、佐自塚古墳の概報をコピーするなどネタ集め。「けっこう豆に更新してるな」と褒められるが自分でも理由が分からん・・・きっと現実逃避なんだと・・・

でも、今日は取り急ぎこの写真。

Dsc00613 現在、玉里村総合文化センター「コスモス」で開催されている鹿島鉄道にかんする特別展の中で展示されている一枚の写真。コダマさんのご好意で撮影させていただいた。

いつだか、紹介した浜駅から出航していた鹿島神宮行きの船。

”参宮丸”って名前だったんやね。しかも、おもいのほか小ぶり。ちょっと意外だった。

でも、考えてみると、霞ヶ浦の深さは平均深度7m程度だから、あまりでかい船は霞ヶ浦では無理だろう。

でもって、一昔の鹿島鉄道の写真も撮ってきました。なかなか渋い電車気動車(この前電車と書いたのは間違いでした。電線ないもんね)やね。

Dsc00614_2 ちなみに、コダマさん。今日、一緒にラーメンを食べに行く途中に鹿島鉄道の踏み切りにひっかかったんだけど、その時きた電車が一番下の写真のもの。

なんか、よーわからんが

「すげーっ」って感心してた!!

古いもんらしい。うーん、まだまだ勉強が足りんな。

でもって、明日3月19日に先ほどの玉里村総合文化センター「コスモス」で

「カシテツを救え。鹿島鉄道を応援するメッセージ発信会」が開催される。

Photo_33 興味のあるかたは参加してみては?

鹿島鉄道 浜駅

Dsc00520 鹿島鉄道・・・それが現在の名前だが、できた当時(1924年)は「鹿島参宮鉄道」と呼ばれていた。しかし、この鉄道、実は・・・

肝心の鹿島神宮までつながっていないっ!!

石岡からいくと鉾田で終点になってしまう。では、いったい何ゆえに鹿島鉄道なのか・・・それは、

この浜駅で船に乗り換え、鹿島方面へ向かったから!!

実際に、鉾田から鹿島方面に鉄道をしく計画もあったけど実現しなかったらしい。

Photo_24 茨狼が訪れたとき、たまたま電車がきたので、慌てて電話で写真を撮った後、お孫さんを迎えにきていたおばあちゃんに船着場の場所を聞いてみたけれど、分からなかった。一番下の写真は駅のすぐ近くにあった入り江。イメージぐらいわくかと思って撮ってきました。

ちなみに、その後、鹿島鉄道は佐貫駅からでる龍ヶ崎線や土浦駅からでていた筑波鉄道なんかと一緒になって、関東鉄道の一員となった。さらに、その後、経営の悪化から、関東鉄道から分離されて現在に至っている。

そして、とうとう今月、親会社の関東鉄道が廃線を決定したようだ・・・

関東鉄道のドル箱・東京―筑波センター間の高速バスがつくばエクスプレスの開通によって大打撃を受けたことが原因かもしれない。

Dsc00522 しかし、関東鉄道は通常の路線バスも「グリーンバス」とか「メロンバス」とかいうわけの分からない名称で細分化している。

将来、赤字路線はバスでも廃止なんでしょうね・・・

これをみた方は今のうちに乗っておきましょう!!

まあ、存続できれば一番いいんだろうけどね・・・

この日記は下記のHPを参考にして書きました。すごいページなので訪れてみてください。

「想い出の車窓から」

http://hp1.cyberstation.ne.jp/shasou/index.html

わけあって電車通勤

わけあって電車通勤

でもって廃線になってしまうかもしれない鹿島鉄道をいまのうちに撮ってきた。実は茨狼は鹿島鉄道にかんしては気になる駅が前からあった。明日は玉里に用事かあるから天気良かったら行ってみるかね。

2017年6月
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